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佐々井秀嶺師
フジテレビでNONFIXで、【男一代菩薩道2~佐々井秀嶺 44年ぶりの帰郷~】を観る。


以前深夜の再放送で、【男一代菩薩道~インド仏教の頂点に立つ男~】を偶然に見ていたので、

続編と知れば見逃せない。佐々井秀嶺師のパワフルな魅力は記憶に焼きついていた。

前作ドキュメンタリーを見たときに、日本人でありながら秀嶺師がインド仏教復興に戦う強さや、

100万人の大改宗式の様子など、テレビ画面で見ていてもとても息を呑んだ。刺激を受けた。


今回の続編では44ぶりに日本へ戻り、最後の来日となる2か月ほどを追ったもの。

前作の印象と全く違った印象を受けた、それは秀嶺師の印象というよりも、

日本とインドの信仰感による生きている価値の差が、そのような違和感を生んだのだろう。

全体的を通して吹き出し笑ってしまうコメディのような場面もあった。

それがなんともいえず、本当の意味で滑稽なのは誰か、真の馬鹿者は誰か生きることを問いかける。

どちらがどうとはいわないが、当然のことながら生きてる場所や状況が違えば、

そこに映し出されるものは違ってくる。久しぶりの日本を旅するなかで、

秀嶺師の人と対面したときに困惑する顔は、鏡写しである。現代日本の今に生きる我々の顔(仮面)が、

自分と異なるものを訝しげにおもったり、自己防衛のために他人を薄ら笑うその面の下に、

真の顔の困惑に違いない。求道者と民衆、レンズの向こうで馬鹿に映るどちらなのか。

ぜひ再放送のときには、みなさんで確かめてほしい。


例えば子ども。先生。各宗派僧侶などなど、何らかの導きや導かれる希望ある者が、

民衆と共に、または民衆の近くで生きていないとしたら、日本人にとっての民衆などは何処にもなく、

選挙の風や流行(ブ-ム)の言葉だけで、薄いメディアがつくった存在か、

バーチャルな存在の民衆は、架空の集合体にすぎないのかも知れない。


秀嶺師の語るように、心に何かを持って生きなければ、先には先細りである。

自分の言葉でいえば、もはや生きているふりで、死んでいるのかもしれない。それとも木偶の坊か人形か。

日本の虚飾な豊かさや文明のなか、機械化される脳と身体のみ進化し強くなるが、

自身が誰か他人と繋がる心が信じられず、自身に掛けがいのない存在であることすら忘れかけてしまい、

放棄したとしたら、呼吸をしても精神無き抜け柄では生きていないのかもしれない。


成田空港の搭乗口のなかに、頭上で手を大きく合わせ消えていく秀嶺師の後姿は、

日本というイヤラシイ俗世から楽園やあの世に戻るように見えた。さようならと清々しているようにも見えた。

その姿はあまりに軽妙で可笑しく、それでいて昇天していく菩薩にほかならない。


身の程知らずに不謹慎な言いかたをすれば、地位や立場や状況に胡坐をかきながら

貪り志向しない何者かよりも、無明なか身を置きもがく人間のほうが、

遥かに滑稽でどうにも魅力にみちて面白い。 出町光識


追伸 親愛なるカメラマンSさん、護国寺のシーンで秀嶺師を下手からレンズで狙ってる姿が、
    バッチリ全国放送でしたな。おなつかしい姿です。ははは
  


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by super-bird | 2009-08-13 04:38 | 気になるおしゃべり
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